どこで「チャックがかんだ」のか,というと,明治時代以降の日本人・森林・シカの関係性に問題があったのではと思われます。シカは1980年代以降に急に増えたと思っている人が多いみたいですが,シカが少なかったのは明治時代以降の約100年間のことです。その前は多数のシカがいたと思われ,今と同じくらいの頭数がいたと推測してる学者もいます。
ですが,江戸時代ころまでのシカが生きていた自然環境は,今とは全然違っていたと思われます(詳しいことはこちらの本などを参照されてください。)。
エネルギー革命以前の日本では,燃料材を採取するための伐採が盛んでした。このようなシステムの元では,森林には明るく生産性の高いフェーズが定期的に訪れます。燃料伐採が頻繁に行われていた時代には,定期的に森の遷移が繰り返され,シカに強い植物たちも多く出現していたことでしょう。
薪炭伐採が停止した後,日本各地で森林の遷移が進みました。遷移が進むと,暗条件に耐性をもつ「遷移後期種」が繁茂し,明条件を得意とする先駆種や遷移初期種は衰退します。遷移後期種は,暗さには強いが成長速度が低く,概して採食耐性も低い傾向があります。一方,採食耐性が高い植物は,シカがいる時には旺盛に繁茂しますが,競争には比較的弱くて,遷移が進むと他の植物との戦いに負けてしまうようです(院生の高木さんの研究報告)。
シカに強い植物は他の植物との競争に弱く,他の植物に強い植物はシカに弱い。そのため,人間による薪炭採取が停止した森では,「植物間の競争には強いけどシカには弱い」という,似たような性質の植物ばかりになってしまいました(生態系内が同じ方向性の生物ばかりになることを,生態学のほうでは機能的多様性の消失とか生物学的均質化などとよびます)。
この均質化が起こった状態で,シカが激増フェーズに突入するという不幸が重なったために,植生が回復できなくなってしまった(チャックがかんだ)のだと,私たちは考えています(関連論文)。
このように考えてみますと,シカの影響と言われるものが,実はシカだけの問題ではないことが分かってきます。シカが増えてケシカラン,シカは害獣だ,という単純な話ではありません。そもそもシカの増加自体が,森林の遷移の進行と同じく,社会構造の変化に起因する出来事です。私たちヒトがめざす社会の姿・森の姿を,トータルで考えていく必要があるのではないでしょうか。
こ の研究は東京大学千葉演習林の長期実験の一部として始まり,今年で15年目を迎えました(2023年現在)。気の長い話のようですが,森の時間スケールでみれば始まったばかりです。教員,院生,プロの研究者,技術職員の皆さんが一緒になって,細々と続けています。